2006年11月25日
名古屋・大阪旅行4 日本の産業革命
さて、ようやく中に入る。そもそもトヨタというのは、もとは繊維の会社であったのだ。トヨダサキチさん(豊田佐吉さん)が明治時代に、綿織物の会社を創業して、それを息子や娘婿などが引き継いで、車の会社にして、なぜか成功して大きくなっていったのである。
そもそも服が繊維から出来ていると言うのは知っていても、よくわからない。ここでは綿の状態から、それが紡ぎだされて、布になるまでが分かりやすく展示されている。昔見た「牧場の少女カトリ」を思い出す。ひたすらカラカラと糸を回していたが、あれが何なのか当時全くわかっていなかった。
あまり繊維に今まで興味が無かったが、要は、ふわふわした繊維を束ねて、そしてねじって、(ヨリを加えると言うらしい)、糸にして、それを縦糸、横糸として、網目状に組んでいって、布になるのである。そして服というのは、そうやってできているのである。何千年前から、人は服を着ていたのだが、学校で、こういう事を教わったのだろうか。記憶が全然無い。なんとなく知ってはいるが、ヨリを加えるというのが、これほど重要なプロセスであるとは・・。そしてこの基本原理に基づいて、世界中でこういう事が行われているとは・・・。日本昔話の鶴の恩返しで、ふすまを覗いた先に、ツルがギッタンバッコンと、織物を織っていたというアニメに登場した織機も展示されていた。そして豊田佐吉は、ナント23歳の時に、独自の人力織機を発明し、特許をとったらしい。
要は縦糸を一本ずつ交互に上下にあげて、間に横糸を通して、縦糸の上下を逆にして、また逆向きに横糸を通す・・・という繰返しによって、布製品はできあがるのである。これをいかに効率よくやるかというのが、勝負なのであった。
そしてミュール紡績機を輸入せずに、別の紡績機を輸入したり、日本国産の紡績機を開発したりと、豊田さんの仕事は続いていく。
日本は後発の利益によって、安価な労働力と、潜在的な高い技術力により、高品質な商品を作ることができた。そして豊田さんのように、機械紡績工場の建設によって、大量生産が可能となった。
1879年には機械制綿糸の生産量はイギリス制綿糸の輸入などに頼らなくとも、国内の生産のみにおいてその需要をまかなえるようになったのである。
これに対して、手織機に対する生産性格差の小さかった力織機の普及は遅れ、主として問屋支配の下で営まれる手織零細経営が圧倒的に多かった。しかし、ジョン・ケイが発明した飛び杼が導入されるようになると、生産性の上昇や安い機械制綿糸の使用によって、手織綿布価格は一般物価に比べて割安となり、自給生産を圧迫しつつ市場を拡大していった。
また、後発工業国であった日本は、先発工業国の開発した高い水準の技術を利用でき、自由な輸出入が可能であったため、工業化に必要とされる様々な財を手に入れる事が容易にできたのである。
1897(明治30)年、輸出量が、輸入量を上回った。綿糸輸出量>綿糸輸入量。その結果、日本製の綿糸が朝鮮・中国市場を支配するようになった。
まあそんなこんなで、日本における製糸業、紡績業というのは、日本が江戸時代の発展途上国から、なんとかかんとか先進国になる為の、経済の最初のステップと言っても過言ではない。
ということで、こういう工業というのは、奥が深いということが、よく分かった。
そして紡績業の展示は更に続き、いきなり現代になり、水や空気で横糸を飛ばすとか、コンピュータで色を解析して、写真のような織物を織る技術まで見せられた。うーむすごい・・・。
Posted by らっっっきー at
23:21
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