2005年08月27日
ハンガリー動乱について
先日タイに旅行した時に、ハンガリーの大学生と友達になった。今でもメールをやり取りしている。日本の文化に対して理解があり、数ヶ国語が話せるとても好感の持てる青年である。彼にハンガリーの歴史を教えてもらい、ハンガリー動乱というものがあった事を知ったが、先日NHKの番組で、ハンガリー動乱についての特集があった。
戦後、旧ソ連はワルシャワ条約などの、社会主義諸国との同盟、干渉を強めていった。ハンガリーにおいて、1960年ごろは、社会主義のシステムが硬直し、経済は停滞し、民衆に不満が溜まっていた。大学生のデモがあり、レーニン像の撤去、表現の自由などを求め、国会まで数万人が行進するという出来事があった。それに対応する為、ハンガリーに常駐していたソ連の軍隊が出動し、ブダペストの街に戦車が溢れる事になった。しかし最初はデモは平和的なものであり、民衆の主張に共感したソ連兵が戦車に民間人を乗せて街を走るなどという光景があった。しかし情勢は徐々に悲惨になってゆく。ハンガリーの秘密警察は当時悪名高かった。ブダペストの広場において平和的に集まっていた市民に、何者かかが発砲し、100人近くが死亡した。おそらく秘密警察の仕業であると言われている。市民たちは武器を持ち、秘密警察及びソ連兵との市街戦を繰り広げた。ソ連軍は一度引き揚げたが、市民達による秘密警察本部の襲撃(多くの秘密警察員たちが処刑された。)に対し、フルシチョフなどを中心としたクレムリンでは、ハンガリーに対し強行策を取る事が決定され、戦車数千台、兵士数千人がハンガリーに投入された。ブダペストは血みどろの市街戦となり、16000人ほどのハンガリー人が死亡した。そしてその後旧ソ連のハンガリーに対する支配は強まった。
私の友人のハンガリー人は、このハンガリー動乱について触れ、アメリカはソ連の横暴に対して、何もせず放置していた。だから私はアメリカが嫌いだと述べていた。(英語で)
しかし当時は、スエズ動乱??などで、西欧はハンガリーなどの問題に、取り掛かれなかったと言われる。またアメリカが介在して、ベトナム、朝鮮半島のような悲劇が起こったら、その方がさらに状況は深刻になるであろうし、難しい問題である。
さて冷戦崩壊後、東欧諸国は、旧ソ連の束縛から解放され、市場経済への移行及び言論の自由が増え、ハンガリー動乱の際に学生がデモで要求していた事項は、ほぼ実現した。経済が停滞している国もあるが、商品は増え、市民は自由を楽しんでいると言われている。
結局の所、合理的なほうへ、国のシステムは移行したわけであり、旧ソ連も弱体化した。これは歴史の必然であっただろうが、その過程で流された血を、忘れるべきでは無いであろう。
正義の話をしよう
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Posted by らっっっきー at 13:07│Comments(0)
│戦争とか世界とか